脱・折れない心

折れない心を作らなければならない、という言葉があまり好きではない。

私は見かけによらず、心がぽきぽき折れるタイプだ。折れない心を作れと言われても困ってしまう。

しかし、世の中を見渡すと、アニメの主人公から、芸能人から、自己啓発書作家から、部活に励む小学生まで、折れない心が大好きだ。みんな折れない心づくりに躍起になって、どうやれば折れない心が作れるかを探している。折れない心作りに腐心して、心身ともに疲弊してしまっている人すらいるように思う。
そこまでして折れない心は作らなければならないのか。

折れない心を持っている人の実例にあげられるような戦国武将や剣豪たちは、本当に折れない心を持っていたのだろうか。

歴史書なんかを読んでいると、結構ぽきぽきいってるじゃないかと思うことがよくある。
彼らは鋼の心を持っていたわけではなく、実際はぽきぽき折りながらも、手をかえ品をかえ、時にはずるをしたりだまされたりしながら、目標に向かって進んだという方が正しいと思う。
マクロで歴史をとらえるから心が折れていないように見えるだけで、ミクロを見ていくと、彼らだって折りまくった心の屍の上を歩いていたはずだ。

現代でも、折れない心を持っているとされている人は、いろいろな挫折を味わっている。
心が折れても、その度に立ち上がってなんとか成功しているということだ。彼らの中から、目標へのやり方やアプローチの仕方をかえずに成功した人を探すのは大変だ。みんなぽきぽきと心をおられたから、手をかえ品をかえ、目標に向かってがんばったのではないか。

重要なのは、折れない心を作ることではなく、折れちゃってもいい細めの心をいっぱい作ることではないか。
いっぱい作っておけば、一つの心がだめでも新たに次の心を使って挑戦できる。100回心をおられても、101回目の心があれば、別になんてことはない。
100回も心をおられているうちに、もう心を折られた回数なんて数えていないだろうし、些細なことは結構どうでもよくなっているはずだ。

折れない一本の心を丹念に育て上げるのもいいが、それだとリスクが大きすぎる。それが折れたらおしまいだ。だから折れないようにするんだ、と言われるかもしれないが、外的要因で仕方なく心を折られてしまうことだってある。例えば交通事故などがそうだ。
歩道の真ん中を、非常に注意深く、誰にも迷惑をかけず、自転車がきたら脇によけ、人とすれ違うときは道を譲り、笑顔で挨拶を交わしながら歩いていたとしても、一台の暴走トラックから自分の身を守ることはできない。

ビジネスだってそうだ。一社のお得意様からの売り上げが突出していたら、それはすばらしい事である反面、事業リスクでもあるわけだ。少し売り上げが低くても、複数のお取引先からまんべんなく売り上げられている状態のほうがいい。お取引先を失ったときのリスクを極小化できる。

別に折れない心を一本持っていようが、折れてもいい心を数千本持っていようが、最終的に目的地が同じであればそれでいいはずだ。数千本の折れてもいい心は、それだけ多くの可能性を検討できるということだし、人間としての幅も広がるように思う。

折れない心なんて無理して作る必要はない。作れ作れと九官鳥のように繰り返す人が、折れない心を持っているかどうか確かめてからでも遅くない。
折れてもいいように嫌なことから逃げつつ、回り道しつつ、自分を騙しながら目的地へ近づけばいいと思う。折れない心を作ろうと頑張っているうちに心が疲弊してしまっては意味がない。

折れてもいい心をバンバン量産していくのがいい。新しいことに挑戦すれば心なんて何度も折れるに決まってるんだから、折れても残るくらい大量に生産しておけばいい。

「このへんで一発、二、三本折っとくか」くらいのゆるい感じで折っては作り、折っては作りを繰り返していけば、心の鍛冶職人探しに苦労することなく、今を全力で走り抜けられると思う。

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