「コミュニケーション能力」への違和感

今更感もありますが、コミュニケーション能力という言葉の使い方に違和感があります。

コミュニケーションというのは送り手と受け手で成り立つ意思の疎通のことを言う訳ですが、本来、送り手が伝えたいと思ったことがどれだけ正確に受け手に伝わっているか、送り手の伝えたいと思っていることをどれだけ正確に受け取れるか、ということがコミュニケーション能力の本分であるはずです。

ですが、昨今のコミュニケーション能力の意味は、「思いやり」だとか、「優しい言い方」だとか、「話が面白い」だとか、そういう人柄の部分に重きが置かれており、「伝達したいことを可能な限り正確に伝達する能力」は重視されていないような気がします。

 

コミュニケーションについて正確に把握するために、コミュニケーションをステップに分割すると、以下のようになります。
1.送り手が伝えたい事を思いつく
2.送り手が独自の経験等に基づき、伝達切り口を決定する
3.送り手が言葉にする
4.環境、情勢などの外的ノイズが送り手の言葉に付加情報を与える
5.受け手の耳に入る
6.受け手が送り手の言葉を独自の経験等に基づき、解釈する

私が考える限り、上記のような6つのステップを経て、送り手の考えが受け手に伝わる事になる訳ですので、ステップ1とステップ6では全く違うこととして伝わっている可能性もあります。

本来のコミュニケーション能力というのは、1と6の差分を定量的に確認し、1と6が限りなく近づくまで繰り返し繰り返し伝達する、あるいは、繰り返し繰り返し確認する能力のことを言うはずです。
ところが、最近求められているコミュニケーション能力というのは、2と6の部分がいかにそつなくできるかというところしか見ていないように感じます。

コミュニケーション能力の巧拙で考えると、伝えようとする切り口、解釈の切り口がどうあれ、伝えられたか、受け取れたか、が重視されるべき点です。そつなく出来ていなくても、1と6の差を可能な限り埋めていれば、笑顔で話すことよりも評価されるべきなのです。

面白い話ができるとか、笑顔で話せるとか、そういったところは会話の雰囲気作りに関するテクニック的な能力であって、コミュニケーション能力とは違うものであると思います(重要ではないという意味ではありません)。

私は、コミュニケーション能力という言葉を、面白い話をする、笑顔で話せる、という意味で使っている人ほど、本来のコミュニケーション能力に劣っているように感じます。

そういう人に限って、「伝えたはずだ」、「言ったはずだ」、「言っておいたのだが」というような一方的通達をコミュニケーションととらえているような発言をしがちに感じます。

私は、誰かが「伝えたはずだ」、「言ったはずだ」、「言っておいたのだが」というような発言をしたのを耳にした場合、その誰かと仕事をするときは、必要以上に意図を確認する事にしています。

「言ったはずだ」などの一方的通達を行う人は、受け手も自分と同等の経験をし、自分と同様に考え、自分の言ったことを言った通りに解釈するはずであるという身勝手な前提の上で発言している可能性が極めて高いからです。

あまりに繰り返し確認すると厄介な事になったりしますが、問題が大きくなって面倒なことになるよりは、最初のうちに繰り返し確認してムッとした顔をされておいた方がいいと思っています。勿論、可能な限りムッとされないため、自分を下げるようなインプットを相手にあたえ、確認に持ち込むように誘導するようなテクニックは必要です。

私個人としては、面白い話が出来る人よりも、多少口ベタだったとしても、「受け手は絶対に送り手が伝えたい事と100%同じように解釈することはありえない」、とわかっている人の方が、信頼できると考えています。

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