少し前だが、子供がなんでもかんでも妖怪のせいにして困る、というような話を聞いた。
ものをなくしても妖怪のせい、何か失敗しても妖怪のせい、と、何でもかんでも悪い出来事を妖怪に引き受けてもらうシステムが出来上がっているというのだ。
それだと教育によくないとか、子供の為に良くないとかで、親たちは日々頭を悩ませているらしい。
自分には子供がいないので、その悩みの深刻さたるやどれほどのものかはわからない。だが、大人も子供と変わらない事をやっているじゃないかと色々と思うところがあった。
うまくいかないことは、戦争のせい、バブルのせい、団塊の世代のせい、国のせい、社会のせい、会社のせい、上司のせい、と、なんだかよくわからないがもっともらしいことのせいにしてきた。
子どもたちが何かを妖怪のせいにするのと、大人たちが自らの不遇をバブルのせいにするのと、そこまで大きくは変わらない。
そもそも人間は誰かに責任を引き受けてほしいのだ。
子どもだってそうだ。
今もやっているかしらないが、ホームルームで弾劾裁判をする。なんだかよくわからない罪で女子が男子を弾劾し、謝罪を要求して謝罪させる。教師はそれを平気な顔で見ている。
被害者が謝罪に誠意がないと感じれば、何度となく謝罪のやり直しを要求し、納得いくまで謝罪させる。その裁判は完全に治外法権だ。疑わしきは罰せずなんて原則は存在しないし、被害者の言い分も極めて一方的だ。
チクるという言葉がある。
方言かどうかはわからないが、告げ口をするということだ。
子どもの頃はチクりは重罪だった。
正義感を振りかざしてチクろうものなら、必ず発覚し、そのあと無視やらいじめやらで袋叩きにあう。必ず発覚するのはチクられたほうが告発の事実を内密にしないからだ。その重い告発を自分だけが持っておくのが嫌なのだ。誰かに責任をなすりつけたい。だから告発は漏れる。
もっともらしい何かのせいにするのと、目に見えない妖怪のせいにするのと、どちらがいいのだろう。
例えば物事を社会のせいにして考えてみると、急に息苦しくなって、重苦しくなって、言いようなく不快な感じがする。閉塞感でやる気も何もなくなってしまう。
逆に妖怪のせいにしてみたらどうだろう。妖怪のせいじゃしょうがねえな、という気になる。妖怪、そろそろ邪魔しないでよ、という気になる。
子供だけに妖怪を使わせておくのは勿体無くないか。
妖怪のせいにして苦境を乗り越えていかなければならないのは、大人のほうではないか。事業に失敗しても妖怪のせいだと思っておけば、何度だってやり直せる。
くだらない弾劾裁判をやるくらいなら、ハイハイ妖怪妖怪とその場を諌めてしまえばいい。告発を受けたら、妖怪から聞いたんだけどさ、と告発者を妖怪にしてしまえばいい。
バブルがはじけたのも妖怪のせい、給料が上がらないのも妖怪のせい。妖怪がやっちゃったんだから仕方ないよね、過ぎたことは忘れて前に進もうぜ、となるのではないか。
手始めに、自分が今書いているプログラムがうまく動かないのは妖怪のせいだ。
また妖怪のやろう、悪さをしやがったな。寝ている間に、自分が気づかない範囲で色々ソースをいじったに違いない。タイムスタンプは昨日のままだけど、妖怪だったらそれぐらいできるだろう。
でもまあ、妖怪のせいなんだから仕方ない。
一回ソースを全部捨てて、ゼロから書きなおすことにしよう。