すべて「ですます」のせいかのように

すべて、「です、ます」のせいだった。

自分はこれまでブログを「ですます」調で書こうとしてきたのだが、それだと妙にかしこまった気がしていた。

文章を書こうとすると、妙に調子が狂う。

もっと淡々とした文章を書きたいと思っているのに、です、ますでブログを書こうとすると、妙に息苦しい。

くだらない慣習だと思って「ですます」を辞めてみたらどうだ。

相変わらず書こうとしている内容はくだらないが、自然体で書けるようになったではないか。

というわけで、これまでの「ですます」なんてなかったかのように、自由に何かを書いていこうと思う。大体文体なんてどうでもいいのだ。誰に気をつかうでもないし。

 

さて、おかげ様で少しずつ忙しくなりつつある。

事件に大きいも小さいもないと織田裕二が言っていたが、お客さんの課題にも大きい小さいがない。依頼を頂いたら全力で課題をぶっ潰すスタイルに日々磨きをかけている。

課題を解決する、と言うと、なんだか少し気取っているような気がしてこそばゆい。自分のスタイルに合うのは、課題をぶっ潰して粉々にするような全力投球だと思う。

 

企業で仕事していた時は、いかにして効率的にオートメーションに近い形で仕事をこなしていくかが重要だった。

より多くの仕事を短期間でこなすためには、すべての仕事に全力投球するのではなく、フレームワークの中である程度作業化していくのが重要だからだ。

しかし、これがとてつもなくつまらない。

つまらないから鬱憤がたまり、鬱憤が溜まるからはじけて飛び出す。全力投球できないのは、つまらないのだ。

 

その点、自分の事業であれば、どんな金額だろうが、どんな規模だろうが、そのタイミング、その瞬間に自分の持っているすべてを出そうと一生懸命やったって、誰にも文句は言われない。

慣れ親しんだ機器のよく知ってる設定項目であっても、全力でぶつかると知らない事実があることに気づくものだ。知らないことを知れることは成長だし、知っていることが増えることもまた成長だ。流れ作業の中ではきっと気づくことのできない事実。

 

確定申告やら請求やら、会社で働いている時と比べたら面倒なことも増えた。面倒だなあと思うか、知らない世界を面白いと思うか。ちょっとした気分次第で成長曲線は大きく変化する。そして、なんでもやってみると、意外と面白いものだ。

知っている、と、やったことある、は、はっきりと違う。

それらは全く別物だ。

同じ土俵でも延長線上でも親戚でも友達でもない。

知っている、と、やったことある、を混同してはいけない。

知っているだけでやったことあるかのようにふれ回るのは自由だし、そういう趣味があるなら好きに吹聴すればいいと思う。それで迷惑を被る人がいなければ、その人の自由なのだ。

だけど、成長したいと思っているのなら、知っている、と、やったことある、を自分の中で厳格に区別しなきゃならない。

知っているだけでやったことあると思い込んでしまったが最後、絶対にやってみようと思わないからだ。

あのgoogle glassも失敗する時代だ。やってみないと絶対にわからない、それだけが絶対なのだ。

 

「です、ます」に拘って書いてきたブログから「です、ます」を捨ててみる。

やってみないと、その先は見えてこない。

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