月別アーカイブ: 2015年2月

独立して営業をするかしないか

営業が嫌い、という人によく会う。

営業という職種に就いている人が嫌いというわけではなく、自分が営業行為をするのが嫌い、したくない、と言っているわけだ。

個人的には、技術力がなくても営業力があればなんとかなると思うし、その逆は破滅的だと思うので、営業行為に苦手意識を持つべきではないと思う。

むしろ、短いながらもこれまで独立して事業をやってきた中で言えることは、「積極的に営業できるようになりたい」と、自分の成長を営業スキルにシフトできる人間でなければ、継続的なビジネスの発展は難しいだろうということだ。

 

色々な人のやり方を勉強する目的で、様々なメールマガジンやブログを読んでいるが、ビジネス系、起業系記事の中で一定数の割合を占めているのが、営業しなくてもいいよ系メルマガだ。

営業しなくてもお客様と契約出来る方法、というような夢のような話は、やはりある程度のニーズがあるようで、どれもそこそこの人気を集めているようだ。

 

内容は千差万別で、「営業」という行為の範囲を再定義しようとしているものから、ホームページ作ってSEO対策をやれば完璧というような、極めて乱暴なものまで幅広い。

確かに業種や職種によっては、ホームページを作るだけで営業行為が完了するようなものもあるかもしれないが、それでは老舗にほとんどの顧客を持って行かれたまま、マーケットを切り崩すことはできないだろう。

 

仮に始めようとしているビジネスが極めて新規性の高いもので、他の誰も真似できないような超特殊なスキルを要するものだったとしたらどうか。他者が追随することはほぼ不可能に近く、それを行えるのは自分しかいないとしたらどうだろうか。

それでもなお営業は重要だ。
知ってもらって、ほしいと思ってもらって、買ってもらって、長く使って(親しんで)もらうには、買う人の心を動かさなければならないし、買ってもらった後もなお、使ってくれる人の心を動かし続けなければならないからだ。

 

営業行為が嫌いだという人の中には、営業行為を難しく考えすぎている人が多いように感じる。

営業行為とは、平たく言えば、自分の特技(特技を駆使して作ったもの)をお金を出してでもほしいと思ってもらえるようにする行為だ。

だから、友達や家族に自分の仕事のことを説明する行為も立派な営業行為だ。たまたま紹介してもらった初対面の方に、自分の情熱を語ることも立派な営業行為だ。

自分の特技を知ってもらって、いいなと思ってもらって、それに対してお金を払いたいなと思ってくれる人を探す事に通じる行為はすべて営業行為なのだ。

 

自分がやりたいことや、好きなこと、目指していることの話をしているときは、誰しも楽しいものだ。それを人に話すのがつまらなかったり、嫌いだったりするということは、それは自分が目指しているものではないのではないか。

例えば自分がボールペンを売っているとして、ボールペンに一切の興味がないとすると(私は文房具が大好きだが)、きっとニコニコとボールペンの素晴らしさについて語ることはできない。なぜなら、ボールペンに興味がないから、ボールペンの話をふくらませることができないからだ。

一方で、私は文房具が大好きなので、全く販売したことがないけれど、文房具販売の営業ができると思う。本職の人と同じくらい売れる自信はないし、実際できないだろうけれど、自分が好きで使っている文房具の良さなんて、いくらでも語ることができる。オファーさえあればやってみたいと思う。

 

営業行為を好きになるには、好きなものを売るか、売っているものを好きになるしかない。売っているものを好きになれないのであれば、自分が好きなものを売るしかない。

もし起業して、営業行為をせずに成功しようとしているのであれば、そんな日が訪れることは果てしなく遠いと思う。
営業行為を全くせずに成功出来る方法が本当にあるとしたら、営業行為をせずに成功できる方法を駆使しつつ、営業行為をする人はどうなるのか。より成功するのか。営業行為をしなくても成功できるんだけど、したほうがより成功できるのか。極めて定性的で、わけがわからなくなってきたではないか。

 

営業行為が嫌いなら、営業行為を好きに変える事が出来る人がうまくいくんではないかと、実体験からわかってきた。営業行為をせずに成功する方法を探しているのであれば、できるだけ早めに探すのをやめたほうがいいと思う。その時間を使って営業が得意になる努力をするほうが、きっと成功率は高まるからだ。

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ナチュラルビジネスベーシック

昔から存じ上げているお客様に、「営業風トークがキモいよ」とご指摘頂いたことがある。

自分にとっては目の前の霧が晴れるようなご指摘だった。

単純に言葉を文字にしてしまうと、「営業風トークがキモいよ」であるが、文脈を正確に示すと「(旧知の仲で、お互いどんな人間か知っているのに、いまさら)営業風トークが(前面に押し出して来られても、俺は君がどんな人間か全部知ってるんだから)キモいよ(やめたほうがいい)」ということだ。括弧の中は語られない行間というやつである。

ビジネスを長く続けていくには、自然体でやるしかない。
何かを偽っていても、それはメッキだ。ぽろぽろと剥がれ落ちていく。しかし同時に、自然体とは何なのか、自然体とはなんだろう、そう思い始めてしまった。

 

かつてビッグダディという愛称で茶の間の人気者になったタレントが、その冠番組内で「俺はこういう人間だ」と開き直ったシーンが一躍話題になった。

その場面は詳しくおぼえていないが、その当時の奥さんと喧嘩していたタイミングだったか何かで、世間的には開き直りだなんだとひどく叩かれていたように思う。

当時は、開き直りだ、最低だ、などと、各所で話題になっていたように思う。しかし、自分が自分であることを強く肯定することは決して最低な行為ではないと思う。

全国放送のカメラの前で、妻との痴話喧嘩の様子を見せながら、悪びれた様子も少しの逡巡もなく、「自分がこういう人間である」と言い切れるのはすごいことだ。

 

最近というより少し前から人気のあるタレントに、ローラというモデルがいる。狙ってか狙わずかはわからないが、大御所タレントにもタメ口を使うし、テレビ番組内でも自由に発言する。
しかし不思議と嫌われないし、オファーは絶えないように見える。

これまでの流れだと、あの手のタレントはネット上でものすごく炎上するように思ったが、ローラについては不思議と悪く言われていないように見える。

彼女も彼女でビッグ・ダディと同じ自然体だと思うのだが、人々が持つ印象は全く違うようだ。
どちらも既に著名である時点で、素晴らしいセールスマンだ。やり方はどうあれ、自分を売るということにおいては、既に大成功を収めている。

 

世の営業成功本などには、できる営業マンは自然体だと書いてある。自然体を意識することはもはや自然ではない。だが、ものを大量に売るには自然体でなければならないとビジネス書は説く。

一方で、自然体もそのあり方を間違えれば、好かれも嫌われもする。ビジネス書で説くような自然体は、少なくとも嫌われているような人のことを言ってはいないはずだ。

自然体過ぎて、リラックスしすぎると失礼なやつだと言われてしまうし、ビジネスに寄りすぎるととっつきにくいやつだと言われてしまう。

 

では、自然体とは、結局なんなのか。
それは他者にとっての居心地の良さではないか。

自分を他者にとって居心地のいい人間に変えることによって、あるいは変える努力をすることによって、他者にとって話しやすい空気、過ごしやすい空気ができあがるではないか。

 

自然体とは自分自身のことを言っているのではなく、自分と対峙した状態の他者のことを言うのではないか。

他者が自分と過ごすときに心地いいと感じれば、自分がいくら装っていても他者は自然でいられる。自分の自然が他者にとって居心地が悪ければ、それは他者にとて自然でもなんでもなく、ただの居心地の悪い空間だ。

これを簡単に作り上げられる人もいれば、大変な努力を要する人もいる。

ただ、重要なのは意識せずに作り出せるかどうかではなく、作ろうと意識することではないかと思う。様々なビジネススキルと組み合わせて、他者にとって居心地のいい空間を作り出せた時、素晴らしいセールスマンになれるのではないだろうか。しばらくこれを試していこうと思う。

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メールと量とスピード

お客様とのランチの折、メールなどのレスポンスの話になった。

早さは自分が最も重視していることなので、非常に勉強になった。
自分も常々感じていることだが、ボールの所在を明らかにすることや、可能な限り自分の手元にボールを置かないことは、非常に重要だと思う。

 

対顧客のレスポンスについては、可能な限り素早く行うべきであると思う。
見た時点で寝かせるのではなく、メールの量が多すぎると怒られたとしても細かいレスポンスをするほうがよい。顧客に「こいつはメールを読んでいるか読んでいないかわからないな」という評価を持たれてしまうのはかなり危険だ。
もちろん、自分の調査不足やミスにより五月雨式にメールを増やすのは論外だ。

 

対顧客とのメールにおいては、あまり大きな問題を抱えている場合は多くないが、プロジェクト内のメールやりとりにおいては、大きな問題を抱えていることが多分にあると思う。

プロジェクト内のコミュニケーションにおいて、細かいメールのやりとりで、メールの総量が増えることを嫌うマネージャもいるが、思っていてもそれは表明すべきではないと思う。

 

答えはシンプルだ。
返事がないより返事がある方が事故になりにくいし、見落としているかもと不安になるより見落としていないとわかるほうが事故になりにくいからだ。

たいてい、メールの総量を減らそうという提言は、メールを見たか見ていないかわからないくらいの信頼関係しかできていないうちに行われる。

信頼するかどうかは俺が決める、という旧石器時代の考え方を持っている組織もあるかもしれないが、信頼関係というのは、「関係」というくらいだから双方の合意があって成立することだ。

 

下の人間が素早いレスを行い、事故を減らそうと努力しているうちから、メールの総量を減らそうなどという提言をするのは、発言者が上の立場であればあるほど、下の人間にとってはストレスになる。

しかし、残念ながら、メールの総量を減らそうという取り組みは、色々なプロジェクトで見られていた。そして、メールの総量のみに着目しているプロジェクトであればあるほど、トラブル率が高く、コミュニケーション費用が多額になっていたと感じる。

 

これの答えもシンプルだ。
単純にメールの総量だけに着目させられては、何を送るべきで、何を送らずにいるべきかがわからないからだ。

総量を減らすことだけを考えると、メール一通あたりの文章量がどんどん増えていく。一回のメールで終わらそうとする。

だから、重要なメールを送らないとか報告しないという事態が起きて、なぜ報告しなかったんだという身勝手な叱責が起きる。報告しなかったのではない。報告できなかったのだ。(もちろん例外もある)

 

メールのやりとりにおいて、一番重要なことは、意味のない長い文章を書かないことだ。メールの量を減らすことではない。メールしか伝達手段がないとか、文字だけでできるだけ情報を伝えなければならないとか、特別な意図が無い限りは簡潔な文章でいい。

ある程度進んだプロジェクト上のやり取りであれば、メールは数行でよい。長くて5行以内がベストだと思う。
長すぎるメールは読む気をなくすし、画面のスライドをしているうちに何を言いたいのかわからなくなってくる。
一番いいのはLineのようなチャットだ。簡潔でスピードが早く、端的でわかりやすい。

 

対顧客においても、対プロジェクトにおいても、自分が常に目指す立ち位置はシンプルだ。
「返事がないということは、まだメールを読んでいないのだな」と相手が勝手に思ってくれるくらいにまで、レスポンスの早さを個性化させる。

常に一番最初にレスポンスが来る印象を持ってもらえるようになれば、そのうちに相手の計算の中に、自分からのレスポンスの早さが手駒として加わるようになるのではないか。手駒が目につくようになれば、勝手に使ってもらえるようになるのではないか。

一通のメールを簡潔に素早く返すだけで、期待できる宣伝効果は計り知れないと考えている。

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仕事のための目的、目的のための仕事

事業用のサイトでも明記しているが、事業売上の一部をセーブ・ザ・チルドレンに寄付している。

一部というのは約10%で、今の自分にはそれが限界だ。
約10%というのは継続サポートと言うものに申し込んでいるからで、毎月予め決めた額が自動でカード払いされるようになっているからだ。10%に満たないこともあるし、10%を大きく超えてしまうこともある。

 

決して多くない事業売上の中で、生活費と寄付と新たな事業への投資にお金を回してしまうと、自分の娯楽には一切お金が残らない。
その現状に不満があるかというと、勿論自分がなかなか事業を大きくできないという、自分に対する不甲斐なさは感じる。しかし、その境遇に腹を立てたり、使えるお金が少ないことに不満は一切感じない。
これは、何のために働くか、ということに対する自分なりの一つの答えだと思う。

 

仕事をする理由は様々ある。金がほしい、住宅ローンを払う、家族を養う、娯楽に出かける、ほしいものを買いたいだけ買う。どれも仕事をするための正当な理由だ。かくいう自分も、上記のような理由のために働いてきた期間のほうが長い。

ところが、独立を考え始めるにつれて、考えが変わった。それだけ多くの仕事や現場を経験してきたからかもしれないが、この仕事はおもしろい、この作業はつまらない、この仕事はおもしろくなる、この作業はやりたくない、がだんだんと自分の中で明確に分かれるようになってきた。
やらなくてもいいと思うことをとにかくやらずに過ごしたが、自分の受け持つプロジェクトやチームはトラブル知らずだった。

そのうち、とにかく突き詰めて自分の面白いと思うことをし続けるとどうなるか、これが知りたくなった。社内定例には10分出ただけでもひどく疲れるのに、設計書に頭を捻っている時は何時間でも疲れなかった。機器を使って検証している時もそうだ。何時間やり続けても疲れない。疲れるのは目だけだ。

そうやって疲れることをそぎ落として行くと、純粋に面白いことだけが残った。面白いことが残ったので、そのアイディアをベースに起業した。お客様に喜んでもらえて、そして今の自分にできることだけやることにしたのだ。

 

そこまで来たら、今度は自分のためのお金を削ぎ落とすことにした。正確に言うと、勝手にそぎ落とし始めた。
お金をモチベーションに動くことをやめた。この案件が取れればあれが買える、そう思うのをやめた。
シンプルに、仕事に役立たないものは要らなくなった。今、仕事より楽しくさせてくれるものが身の回りにない。以前はバカほど投資していた衣服も、どんどんネットオークションで売りさばいている。

そして定額寄付も始めた。
そしたら、自分の娯楽に使うお金は殆どなくなった。
もはや、何のために仕事をしているか、という質問に答えられない。何かのためにやっているわけではないからだ。

何かがあって仕事をしているのではなく、好きなことを楽しいなと思ってやっていたら、徐々にいろいろな話に加われるようになってきただけだ。

 

事業としての安定した売上や、利益が出ている状態はまだまだこれからだが、とにかく疲れない。

その日暮らしのように前日や前々日に打ち合わせが入り、都内を電車でぐるぐるしながら電車の中で議事録やコードを書いているが、それでも全く疲れない。

 

お世話になっている先輩経営者の方は、「お金はあとからついてくる」と言った。
後ろを振り返っても気配は感じないので、振り返ることもやめた。きっと、後からついてくるのだろうな、という妙な安心感がある。
正直言って目新しい言葉ではない。でも、発された空気、文脈、その方の人物像、それらはその言葉にそれ以上ない真実味を与えた。

いつついてきてくれるかわからないが、事業が継続できて、妻に迷惑をかけないほどには、ついてきてくれればいいなと思う。

 

成功するか失敗するかは全くわからないが、人生に一度くらい大失敗したっていいと思う。面白いことだけやっているほうが、面白くないことをやり続けるよりも、何億倍も面白いのだ。
自分の人生の中で、数秒でも面白くない時間があるのは、お金なんかに替えられない大損失だと思うのだ。

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価値を探す価値

企業で働いている時、早く仕事を終わらせ過ぎても(よくない)、と教えられたことがあった。

あまりに早く仕上げてしまうと、見積もりの時間に合わないとか、簡単な作業だと思われてしまうとかそういったようなことが理由だ。

教えられた当初は、くだらない冗談ぐらいにしか受け止めなかったが、何度か指摘されるにつれて、それが本気なんだと気づくようになった。

 

仕事が早く終わりすぎると困るのは、時間を売っているからだ。時間を使って創りだす何かを売っているのではなく、その人間に割り当てられた時間を売っている。
時間は万人に平等に与えられているから、逆にいうと、与えられた時間を売ることは、代替するソリューションがいくらでもあるということになる。
顧客は人が持っている時間だけに着目するようになり、競争によって労働単価はどんどん下がっていく。コモディティ化だ。

 

パーキンソンの法則というものがある。
仕事量は与えられた時間分膨張していくというものだ。その仕事がなんであれ、納期までの時間分どんどん増えていくということだ。

時間を売っている、つまり、働いた時間が少なすぎると損をするという概念を持ち続けていると、パーキンソンの法則が働くことを止めることができない。

例えば、一つの作業を早く終わらせる事によって、新しい作業を受け持つことにより、自分の担当する範囲を広げることができる。さっさと仕事を終わらせて家に帰り、将来に向けての学習に励むこともできる。
時間が作り出す短期的な金銭にとらわれていては、その時間が中長期で創りだしたかもしれない新たな価値を手に入れることはできない。

今自分が何をやっているか、何を創りだしているかを常に気にしていなければ、パーキンソンの法則に取り込まれてしまう。毎月に許された残業分の時間を目一杯使って、与えられた仕事を仕上げる流れに飲み込まれてしまう。

 

重要なのは疑問を持つことだと思う。
人から学ぶこと、人に教えを請うことはとても重要なことだ。しかし、教えられたことを無条件に受け入れるのではなく、取り込むべき要素のみを抽出して取り込むべきだと思う。

さっさと終わらせることに価値を感じてもらえないからと言って、だらだらと作業を行う必要はない。さっさと終わらせることをどう価値として見せるかを考えるべきだ。作業の早さに価値を見出さない職場は捨てて、作業の早さを価値と認める職場へと移るべきだ。

 

価値は早さだけではない。正確さ、丁寧さ、文章力、問題把握力、調整力、語学力など、なんでも価値になる。
ただし、積極的に自分の価値について向き合わなければ意味が無いし、自分だけが価値だと思い込んでいても意味が無い。

 

他人にはない自分の中の商品を探す。自分だけが持っているわけではなくても構わない。他に自分より英語を話せる人がいたとしても、自分より英語を話せない人がいるのであれば、英語力は価値の種になる。

次に重要なのはマーケティングだ。
見つけた価値の種に本当に価値があるかを確認する。他人が価値を感じ、お金を払うかどうかを確認する必要がある。確認作業は数日で終わるかもしれないし、数年かかるかもしれない。

 

今では、仕事の早さを自分の価値の一つにしている。
早く終わらせ過ぎて、などということは微塵も考えない。

可能な限り素早く仕事を終わらせ、次の検討につなげる。鉄を熱いうちにどんどん打っていく。
結果として頂ける報酬が少なくなったとしても、それは一時的なものにすぎない。仕事の早さに本当に価値があるのなら、必ず次に繋がるからだ。

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妖怪のせいなのね、そうなのね

少し前だが、子供がなんでもかんでも妖怪のせいにして困る、というような話を聞いた。

ものをなくしても妖怪のせい、何か失敗しても妖怪のせい、と、何でもかんでも悪い出来事を妖怪に引き受けてもらうシステムが出来上がっているというのだ。

それだと教育によくないとか、子供の為に良くないとかで、親たちは日々頭を悩ませているらしい。

 

自分には子供がいないので、その悩みの深刻さたるやどれほどのものかはわからない。だが、大人も子供と変わらない事をやっているじゃないかと色々と思うところがあった。

うまくいかないことは、戦争のせい、バブルのせい、団塊の世代のせい、国のせい、社会のせい、会社のせい、上司のせい、と、なんだかよくわからないがもっともらしいことのせいにしてきた。

子どもたちが何かを妖怪のせいにするのと、大人たちが自らの不遇をバブルのせいにするのと、そこまで大きくは変わらない。

 

そもそも人間は誰かに責任を引き受けてほしいのだ。

子どもだってそうだ。

今もやっているかしらないが、ホームルームで弾劾裁判をする。なんだかよくわからない罪で女子が男子を弾劾し、謝罪を要求して謝罪させる。教師はそれを平気な顔で見ている。

被害者が謝罪に誠意がないと感じれば、何度となく謝罪のやり直しを要求し、納得いくまで謝罪させる。その裁判は完全に治外法権だ。疑わしきは罰せずなんて原則は存在しないし、被害者の言い分も極めて一方的だ。

 

チクるという言葉がある。
方言かどうかはわからないが、告げ口をするということだ。

子どもの頃はチクりは重罪だった。
正義感を振りかざしてチクろうものなら、必ず発覚し、そのあと無視やらいじめやらで袋叩きにあう。必ず発覚するのはチクられたほうが告発の事実を内密にしないからだ。その重い告発を自分だけが持っておくのが嫌なのだ。誰かに責任をなすりつけたい。だから告発は漏れる。

 

もっともらしい何かのせいにするのと、目に見えない妖怪のせいにするのと、どちらがいいのだろう。

例えば物事を社会のせいにして考えてみると、急に息苦しくなって、重苦しくなって、言いようなく不快な感じがする。閉塞感でやる気も何もなくなってしまう。

逆に妖怪のせいにしてみたらどうだろう。妖怪のせいじゃしょうがねえな、という気になる。妖怪、そろそろ邪魔しないでよ、という気になる。

 

子供だけに妖怪を使わせておくのは勿体無くないか。
妖怪のせいにして苦境を乗り越えていかなければならないのは、大人のほうではないか。事業に失敗しても妖怪のせいだと思っておけば、何度だってやり直せる。

くだらない弾劾裁判をやるくらいなら、ハイハイ妖怪妖怪とその場を諌めてしまえばいい。告発を受けたら、妖怪から聞いたんだけどさ、と告発者を妖怪にしてしまえばいい。

バブルがはじけたのも妖怪のせい、給料が上がらないのも妖怪のせい。妖怪がやっちゃったんだから仕方ないよね、過ぎたことは忘れて前に進もうぜ、となるのではないか。

 

手始めに、自分が今書いているプログラムがうまく動かないのは妖怪のせいだ。
また妖怪のやろう、悪さをしやがったな。寝ている間に、自分が気づかない範囲で色々ソースをいじったに違いない。タイムスタンプは昨日のままだけど、妖怪だったらそれぐらいできるだろう。

でもまあ、妖怪のせいなんだから仕方ない。

一回ソースを全部捨てて、ゼロから書きなおすことにしよう。

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難しいから面白いなんていう強がり

経営はむずかしい。

ベテラン経営者の方に言わせれば、なんて当たり前のことを言っているんだと鼻で笑われてしまうかもしれない。
ベテランでも難しいのだ。自分のような超初心者が簡単にできることではないことではないのはわかっている。

それらを把握して、グラウンドを何十周かして、筋トレをして、それでもなお、出てくる言葉は難しい、だ。

 

小さいながらも経営を始めてから、タダ働きは当たり前になった。
お客様から頂いた報酬は、最低限の生活費と、幾ばくかの慈善、次への投資にすべて充てている。ケチと大胆が一体となって、混沌とした投資プランを立てていたかなければならない。

例えば、今使っているプリンタ。
紙ベースのプレゼンは減ったとは言え、いまだに紙は懐に用意していないと不安だ。すべての会議室にプロジェクタがあるわけではないし、全ての人がペーパーレスに心酔しているわけではない。だから、プリンタはオフィスに配備せざるを得ない。

そのプリンタが、現在、困ったことに調子が悪い。
印刷自体の調子は抜群なのだが、ネットワーク経由の印刷の調子が悪い。スプールがうまく受け取れないのか、キャッシュできないのか、なにせ調子が悪い。

電源をオフ・オンして、それでやっと印刷ができる。散々イライラさせたことを嘲笑うかのように、抜群のインクのりで資料を排出する。
直ったと思えばキューに入っている印刷物が処理できない。それどころか、キューに印刷物を溜めたが最後、現在印刷している印刷物も途中で止まったりする。

明確に壊れているのだ。

じゃあ、買い直すか。
この判断が難しい。

効率的な仕事をすることに投資を惜しむなと言うが、プリンタ自体にはあまり必要性を感じていないし、たまにしか使わないのだ。そのくせ、A3サイズの印刷が必要、カラーが必要という風に、買うからにはある程度のスペックが必要となる。

近所にキンコーズでもあれば、買わないという選択肢もありえたのだが、それはそれで、原稿の置き忘れやら、流出やらで別のリスクについて検討しなければならない。失う信用の大きさを考えたら、たかが数万円の投資は惜しむべきではないだろう。

 

一方で、毎月のジム通いには全く迷いなく金をかけている。
毎月一万円弱の投資だが、数ヶ月通わなければプリンタを購入する元手にはなる。

ジムに通う理由は、健康的な見た目を維持するためだ。ムキムキになりたいわけでも、めちゃくちゃ痩せたいわけでもない。血色がよく、適度な体型を維持するためだ。

血色がよく適度な体型は、商談の印象を変える。
初対面なら特にそうだし、自分が客の立場なら顔色の悪い担当者より、顔色のいい担当者にお願いしたいと思う。

人が人を紹介するときもそうだ。
ある程度の清潔感がある人間なら紹介を躊躇わないが、清潔感に欠ける人間を紹介することは躊躇うと思う。

自分は清潔にしようと努力しています、ということを語らずして伝えることができるレベルには、自分の印象をコントロールするべきだと思う。

そう考えているから、毎月のジム通いへの投資には全く迷いがない。

どちらの投資も、「この紙の資料がプロジェクタなら君は失注していたね」とか、「君の顔色がいいから君にお願いすることにしたんだよ」と言われることはない。

だから、どちらに突っ込むか突っ込まないかの答えはきっと永久に出ない。

 

投資の効果は明確な答えとして示されることはない。
何をケチり、何に突っ込むか、明確な答えが出ないから難しい。

経営の麓に足を掛けただけでも、既に難しい。

だから面白いか。

はっきり言って、面白いと感じられる程の余裕などまだない。

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なんとかなるのかならないのか

独立してからつけているノートがある。

 

内容は別に仕事に関わるものだけではない。筋トレのメニューから、思いついたアイディア、仕事になりそうなことから世迷い言、泣き言まで、思いつくことをつらつら書き連ねている。

以前の投稿で触れたスマートノートが、はからずも、自分にとっては独立記録になっているわけだ。

 

書いている内容は、とても人に見せられるような内容でないことから、実際に手書きのページをお客様に見せて商談したものまでとにかく幅広い。

最近の内容をちらっと見返すと、DVB-ASIについて復習したり、お客様への提案内容を考えたメモ書きといったような仕事に関連するものもあれば、ゲイバーママの会話の距離感、なんていう一見するとよくわからないメモ書きもある。

本当になんでもかんでも適当に書いているのだ。

 

書いてあることを読みかえしてわかることは、シンプルだ。たいていの難しいと思えたことは、後から見れば、それなりになんとかなっているということだ。

いつから自分は、取り組む事すべてに大成功しなければならないのだと思い込むようになってしまったのか。なんておこがましい。
何かに大成功することなど、人生で一度あるだけでも大儲けなはずだ。

それなのになぜ、自分が取り組む事全てに大成功しよう、大成功しなければならない、そういうふうに思い込みながら生きるようになってしまったのだろう。

大体、大成功しなければならないと思い込んでいた時の自分は、大成功できていたのか。

できていない。

大成功していなくても、何かと理由をつけて、「これはこれでOK」みたいに事実に蓋をして生きてきたのではないか。

 

書店が好きで、自宅近くの書店に毎日のように行く。

本の表紙で「人生はニャンとかなる」と言っている猫と、毎日のように顔を合わせている。

そうなのだ。
「ニャンとかなる」ものだ。

 

意外と「ニャンとかなる」ことを知ることが、「ニャンとかする」秘訣ではないかと今では思う。

そして、意外と「ニャンとかなる」ことを知るための秘訣が、日々思う何かを書き留めておくことではないかと思う。

 

あの猫の本の中身はまだ読んだことがないけれど、日々世話になっている。
今度買って、礼でも言わなくちゃ。

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すべて「ですます」のせいかのように

すべて、「です、ます」のせいだった。

自分はこれまでブログを「ですます」調で書こうとしてきたのだが、それだと妙にかしこまった気がしていた。

文章を書こうとすると、妙に調子が狂う。

もっと淡々とした文章を書きたいと思っているのに、です、ますでブログを書こうとすると、妙に息苦しい。

くだらない慣習だと思って「ですます」を辞めてみたらどうだ。

相変わらず書こうとしている内容はくだらないが、自然体で書けるようになったではないか。

というわけで、これまでの「ですます」なんてなかったかのように、自由に何かを書いていこうと思う。大体文体なんてどうでもいいのだ。誰に気をつかうでもないし。

 

さて、おかげ様で少しずつ忙しくなりつつある。

事件に大きいも小さいもないと織田裕二が言っていたが、お客さんの課題にも大きい小さいがない。依頼を頂いたら全力で課題をぶっ潰すスタイルに日々磨きをかけている。

課題を解決する、と言うと、なんだか少し気取っているような気がしてこそばゆい。自分のスタイルに合うのは、課題をぶっ潰して粉々にするような全力投球だと思う。

 

企業で仕事していた時は、いかにして効率的にオートメーションに近い形で仕事をこなしていくかが重要だった。

より多くの仕事を短期間でこなすためには、すべての仕事に全力投球するのではなく、フレームワークの中である程度作業化していくのが重要だからだ。

しかし、これがとてつもなくつまらない。

つまらないから鬱憤がたまり、鬱憤が溜まるからはじけて飛び出す。全力投球できないのは、つまらないのだ。

 

その点、自分の事業であれば、どんな金額だろうが、どんな規模だろうが、そのタイミング、その瞬間に自分の持っているすべてを出そうと一生懸命やったって、誰にも文句は言われない。

慣れ親しんだ機器のよく知ってる設定項目であっても、全力でぶつかると知らない事実があることに気づくものだ。知らないことを知れることは成長だし、知っていることが増えることもまた成長だ。流れ作業の中ではきっと気づくことのできない事実。

 

確定申告やら請求やら、会社で働いている時と比べたら面倒なことも増えた。面倒だなあと思うか、知らない世界を面白いと思うか。ちょっとした気分次第で成長曲線は大きく変化する。そして、なんでもやってみると、意外と面白いものだ。

知っている、と、やったことある、は、はっきりと違う。

それらは全く別物だ。

同じ土俵でも延長線上でも親戚でも友達でもない。

知っている、と、やったことある、を混同してはいけない。

知っているだけでやったことあるかのようにふれ回るのは自由だし、そういう趣味があるなら好きに吹聴すればいいと思う。それで迷惑を被る人がいなければ、その人の自由なのだ。

だけど、成長したいと思っているのなら、知っている、と、やったことある、を自分の中で厳格に区別しなきゃならない。

知っているだけでやったことあると思い込んでしまったが最後、絶対にやってみようと思わないからだ。

あのgoogle glassも失敗する時代だ。やってみないと絶対にわからない、それだけが絶対なのだ。

 

「です、ます」に拘って書いてきたブログから「です、ます」を捨ててみる。

やってみないと、その先は見えてこない。

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